『軍曹のちょこっとコラム』

      世界のオザワ、CDも大人気

                                        2002.1.19 静岡新聞


 今年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の、ニューイヤーコンサート指揮者に日本人で初めて小沢征爾が選ばれた。そしてその指揮も大変な好評を博したようだ。さらにその時録音されたCDが、地元オーストリアではポップスを押しのけてヒットチャートのトップに躍り出たそうだ。

 世界のオザワと言われる程有名で、日本人なら誰でも知っている名前だろう。クラシックを聴くと言えば、ドヴォルザークの「新世界より」程度しかない。ボクはその程度のクラシック音痴であります。

2年ほど前に、オモロイ本ないかなぁ?と本屋を物色していたときに小沢征爾が26歳の時に書いた本を見つけた。 タイトルは「ボクの音楽武者修行」 \400也。ペラペラページをめくってみるとナカナカ面白そうだった。「今日はこれに決ーめた!」とレジに持っていった。

 満州で生まれ、戦中は立川で過ごし空襲の怖さを存分体験した。敗戦後の貧しいときにも両親は、家にあったピアノを手放さず子供達には自由に勉強させてくれた。母親がクリスチャンで兄らと小さいときから賛美歌を歌っていたそうだ。ラグビーをしながら高校、短大で音楽や合唱を勉強し、西洋音楽をやるからにはヨーロッパに直に触れてみたいと決心した。しかし若い小沢にそんな金は無い。ましてや昭和30年代の日本である。
 そこで小沢はスクーターの宣伝を兼ねながら、ヨーロッパを廻るという条件を富士重工業から取り付けた。富士重工業からスクーターを貸与してもらい、分解整備の勉強もした。1959年(昭和34年)神戸港から貨物船に乗ってヨーロッパに向かった。

 ヨーロッパでは日の丸を書いたスクーターに跨り、背中にはギターを背負い、歌を歌いながらパリを目指して走った。宿泊は寝袋で野宿だ。タダでさえ奇異な格好であり、田舎の農村では初めて見る日本人でもあって、いろんな人と出会っていく。毎日毎日初めて見る景色ばかりで、楽しくてしようがなかった。
 そしてブザンソンで指揮者のコンクールがあると聞き、応募してみたが書類不備で締め切りを過ぎてしまった。しかし諦めずにアメリカ大使館音楽部へ行って「俺は素晴らしい指揮者になるだろう」と大見得を切って、コンクール出場への便宜を取り付けた。
 
 世界中から優秀な指揮者が集まるコンクールなのだが、体を張った小沢の指揮は会場中から「ブラボー!ブラボー!」の連呼で予選を通過し、2次予選も通過、本選では優勝してしまう。新聞記者の質問攻めにあい、「これくらいのことは日本の音楽教育では、ほとんど基礎的な事にすぎない」と、またも大見得を張る。

 以降は各地のコンクールで優秀し、オーケストラからも指揮の仕事が廻りはじめた。シェーンベルク、ミュンシュ、カラヤンに師事し、日本を出発して2年半後ニューヨーク・フィルの副指揮者として凱旋帰国した。

 小沢は只単に才能があっただけでなく、それを試すチャンスを自ら切り開いていく勇気と、行動力そして楽天的な性格が、成功した大きな理由になっていると思われる。

 植村直己、落合信彦、野田知佑、賀曽利隆などなど・・・・日教組の連中から言わせれば、無茶無謀とも言える破天荒な生き様をしてきた人達の、若いときの話は実にオモシロイ。

 椎名誠、水木しげるの自伝的小説もマコトにオモロイよ (^o^)

 


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