『軍曹のちょこっとコラム』

       峠について


 国内をいろいろ旅していると、多くの峠を越すことになる。
日本は山ばかりなので、チョッとバイクで走れば必ず峠に差し掛かる。ましてや僕はオフロードバイクに乗っているので、林道の峠、トンネルの上にある旧道の峠をいっぱい走ってきた。高速道路のような峠道より、木が生い茂った昔の街道峠や人里離れた寂しい峠のほうが好きなのです(未舗装ならなおさらね)。
 
 中国語では峠という漢字は存在せず、日本人が大和言葉の“とうげ”を山・上・下を組文字にして作ったようだ。それがいつの間にか当用漢字になったのです。ちなみに中国で峠に当たる字は“嶺”となるらしい。 “峠”より“嶺”のほうが標高が高く、空にそびえ立っているような感じがする。

 単なる稜線は峠とは言わない。そこに人の通る“道”が出来て初めて峠となる。そして峠は山の稜線にあるので、今も昔も国境、県境、市町村境となっているところが多いのだ。現在のように自動車やバイクもない時代には、人間の脚だけで峠を越えていった。峠はだいたいがして人里から遠く離れていて、バイクで行っても夕方峠に着くと寂しく感じる。ましてや昔の旅人は山犬(狼)に怯え、灯りも無いから暗くなる前には麓の宿場町に着かなくてはいけなかっただろう。

 昔の峠は本当の稜線上にありました。しかし時代の移り変わりと共に、峠は次第に高度を下げていきます。大八車が通るにはある程度道幅も確保しなくてはいけないし、勾配も緩い方が楽です。鉄道が普及し始めると標高の高い峠はトンネルによってパスされ、自動車が普及してくると昔の街道にあった峠道は、出来るだけ低く、まっすぐ造られるようになりました。経済成長期を迎え交通量が増えてくると、高速道路や高規格道路が多く造られて、更に長いトンネルや直線道路が峠の高度を下げていったのです。
 試しに地図を広げてみてください。昔からの街道峠に造られた幹線国道のトンネル付近には、必ず細くてクネクネの旧道があるはずです。時間の許す旅ならば、その旧道を通る事をお勧めします。
 見通しの利かない1車線ギリギリで、厳しいタイトコーナーの連続を苦労して登り詰めた時には、「ほぇ〜、やっと峠かぁ」と峠で思わず一服したくなるでしょう。バイクでもこう感じるのですから、歩いて登った昔の旅人が、峠に到達したときの安堵感はさぞかし大きなものであったでしょう。快適なトンネルでアッという間に通ってしまっては、“峠”を越す事の大変さを感じる事は出来ません。

 僕が初めて峠越えを感じたのは18歳の時でした。当時乗っていたシャコタン(笑)セドリックに毛布を積んで、単独2泊3日で日本海を目指したのです。清水市からR52〜R20〜R19〜R148で糸魚川に出て、富山〜高山を経て野麦峠へ向かいました。時期は3月で、峠付近にはまだ雪が残り、夜真っ暗な道を子供ばんどをステレオでガンガン鳴らしながら走りました。
 しかし峠に近付くにつれ路面の雪が多くなり、ついには怖くなって断念したのです。向きを変えるスペースも無く、雪の降り続く中窓を開けて首を出し、ひたすらバックしました。ガードレールも無い1車線道路で、路肩まで雪が積もり車はシャコタンです。いつしかステレオの電源を切り、手に汗してハンドルに集中していました。今思えばたいしたこと無かったと思いますが、そのときは“恐怖”を感じました。生まれて初めて“峠”を意識した時です。
 
 諏訪湖に着いたとき「もう帰らなくちゃ」と思い、地図で最短ルートを探しました。するとR256〜R152で下れば、浜松まで一直線で行けることに気付きましたが、茅野市からR256へ入る道が分からず、GSで尋ねました。教えられた道に曲がると「
杖突峠」と書いてある、木製の古い道標が目に入り、眼前に横たわる大きな山並みを眺めて「また峠か・・・・」とチョッと不安になったのです。 杖突峠を無事越え、高遠町、長谷村と南下していくと今度は分杭峠に差し掛かりました。分杭峠はセドリックにはチョッと厳しいダートだったのです。それよりも「これは本当に国道だろうか?この道で果たして浜松に行けるのだろうか?」と心配になってきました。ガタガタ道の路肩にはしっかりR256の標識があるにもかかわらず・・・。
 
 分杭峠を越えると大鹿村です。大鹿村と次の上村の境にも、ガタガタ道の峠がありました。
地蔵峠です。路面もかなり荒れていて、ますます不安になってきました。峠を越えたところで、製材所のおじさんに聞きました。「浜松に行くにはこの道で良いんでしょうか?」「浜松へ?知らんなぁ」  うおぅ!いったいこの地図(ホームセンターで\980)は信用して良いのかなんかなん?まぁ、いいやっ。行ける所まで行っちゃえ!と半ばやけくそで駒を進めたのです。

 次の南信濃村が長野県の最南端で、やっと静岡県に辿り着けそうになりました。しかし又々峠が・・・・・。しかも二つあるのです。
青崩峠兵越峠。「浜松」と書かれた小さな小さな標識を、かろうじて見つけたときは大喜びでした。兵越峠も当時はまだ未舗装で、峠にやっと着いて「静岡県」の標識を見ながら「あぁ、やっと静岡だ・・・・・・」とタバコに火を点けたのです。

 この時以来、このR152、R256に大きく興味を持ち、その後ジムニーやバイクで、何度も何度も兵越峠を越えては探検に出掛けるようになりました。秋葉街道であり、相良の塩と信州を結んだ塩の道でもあり、諏訪大社の神が遠州に下った天竜川沿いであり、武田信玄の軍勢が通った道であり、平家の落人が逃げ延びてきた場所でもあり、南北朝時代に南朝の宗良親王が東征府を置いた場所であり、フォッサマグナ露出する峠ありと、歴史的にも地理的にも大変興味深い所で、それだけで一つのホームページが出来る程です。

 ・・・・・・・・・・このように全国の峠には峠の大小に関係なく、人々の歴史がたくさん刻まれいるのです。
 ちなみに
地蔵峠という峠の名前は全国で12カ所(長野県だけで4カ所。全国ではもっとあるかもしれない・・)あります。村と村の境であった峠に、よその村から疫病が入らないよう、あるいは旅の安全を願ってお地蔵様が祭られていた為です。

 


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