『軍曹のちょこっとコラム』

   国産旅客機開発へ 
    経産省が構想推進「YS11機」以来

                             
静岡新聞2001.11.25



 おっ!それは良いことだ。 米食文化の日本人は大昔よりワラから草履、俵、縄、蓑などを日常的に作りだして生活の中で活用してきた。しかし現在それらを作れる人が、自分の友人にいますか?僕はワラから縄を作る事は出来ますが、俵、草履は作れません。それは今までの生活の中で必要も無かったし、その技術を伝承される機会も無かったからです。僕の親の年代の人達でも、俵や草履を作れる人はそう居ないんじゃないかな・・・・。 
このようにどんなジャンルでも同じですが、“技術は受け継がれないと絶える”のです。

 日本も戦前から国産飛行機を設計製造する技術を持っていた。しかも欧米先進国に引けを取らない高い技術だ(発動機関係にはチョット弱かったけど)。当時(第2次大戦)世界中でトップクラスの飛行機を製造できたのは日、独、米、英、ソ、だけだった。 戦闘機の性能はその国の命運が掛かっていたからから当然であった。その中でも独は飛びぬけていた(後述)。しかし戦争に負けた日本、ドイツは戦後しばらく飛行機の設計、製造を一切禁じられていた。仕方なくメッサーシュミットや中島製作所(現富士重)は自動車などを製造していたのだ。しかしそれも解禁となり国産初の民間旅客機の開発が始まった。開発に携わったのは主に以下の5人である。  

    
木村秀政氏 A26
堀越二郎氏 零戦、雷電
土井武夫氏 飛燕、五式戦
菊原静男氏 九七式大艇、二式大艇、強風‘後の紫電改’
太田稔氏 隼、疾風
右は戦争中設計した飛行機の名前です。

 どうですこの顔ぶれ!どうです彼らが開発したこの飛行機達!    簡単に解説しちゃおう!

  零戦・・・・・・・いわゆるゼロ戦です。正式には零式艦上戦闘機。昭和15年
              中国大陸で零戦13機で、ソ連製I-16の27機編隊を全機撃墜
              という華々しいデビューを飾り、大東亜戦争初期には熟練パ
              イロットに操縦された零戦はまさに無敵を誇り、「ゼロを見たら
              逃げろ」という情けない命令が、本当に出ていたほど連合軍
              に恐れられていた。現在に至るまで日本で零戦以上たくさん
              製造された飛行機はありません。撃墜王 坂井三郎氏の乗機
              であります。 

  
飛燕・・・・・・・日本では珍しい液冷エンジン(ダイムラー・ベンツのライセン
              ス生産)の戦闘機。不慣れな液冷エンジンの為稼働率に問
              題があったが、本家メッサーシュミットBf109より頑丈であった。
              発動機不調の飛燕を空冷エンジンに積み替えたのが五式
              戦闘機。五式戦のほうが性能は上であった。カッコイイのだ!

二式大艇・・・・・・・日本は当時から水上飛行機にかけては世界をリードしていた。
             その最たる物がこの二式大艇です。2回目の真珠湾空襲をし
たことは、あまり知られていません。

 
紫電改・・・・・水上戦闘機 強風を陸上用にしたのが紫電、紫電を更に改
              良したのが紫電改。戦争末期、松山上空で調子に乗ってや
              って来た、米空母機動部隊のF6Fヘルキャット達を、源田指
              令官率いる343空(日本海軍生え抜きのパイロット達を集
              めた航空隊)の紫電改が一度に58機も撃墜したことはあま
              りにも有名。 ざま見ろ! 

  
疾風・・・・・・・第2次世界大戦最高の戦闘機と言われる、ノースアメリカン
              P51ムスタングから一時的にではあるが、中国大陸上空か
              ら制空権を奪い返した程の高性能戦闘機。九七式戦闘機、
              隼などを開発してきた中島飛行機の締めくくりを飾った。
              “大東亜決戦機”と期待されたが、本土の工場を空襲され
              まくっていた状況では、到底戦局の挽回は到底無理だった。
              完全なエンジンと高オクタン価のガソリンがあったなら・・・。

 このように“日本の名機”を開発をしてきた技術者達が集まって旅客機の開
発に望んだのです。大変な苦労を乗り越え(NHK番組 Xプロジェクトで取り上
げられました)、初の国産旅客機が誕生したのです。1962年8月30日初飛
行に成功し、合計182機も製造され海外にも76機が輸出された名機となりました。
 
 そんなYS11も老体となり近い将来、国内の全ての路線から引退する予定です。
そして今回の計画。今まで培ってきた日本の航空技術を、次の技術者達に受け
継がれこのプロジェクトが是非成功する事を願っています。
 ちなみに航空自衛隊の次期主力戦闘機も、最初は純国産で開発される予定で
したがアメリカの思惑で日米共同開発という形になってしまいました。YS11以外
にも対地支援戦闘機F1、C1輸送機、哨戒飛行艇YS−2など優秀な飛行機を
戦後国産開発しています。

用兵思想の違いから列国陸軍戦車に比べて見劣りしていた日本戦車であったが、
戦後初の国産戦車を開発したのが61式戦車だ。その後も74式、90式と国産の
戦車を開発採用している。61式戦車は旧軍時代の面影を色濃く残しているが。

そうなのだ!祖国を守る武器は国内調達するべきなのだ!

 

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