『軍曹の貧乏旅行』

  走った!走った! 
        日本一周!

 さい頃から友達に「おまえは変わり者だ」とよく言われていた。
まぁたくさんの人がいて、みんな似たような連中ばかりじゃ世界も面白
くないと思っていたから、そう言われても悪い気はしなかった。

  22歳の春、4年間勤めた会社を退職して日本一周の旅に出掛けた。

   

 最初は当時乗っていた360ccのジムニー(LJ20)で行くつもりでしたが、
毎月買っていた4駆雑誌の隣に、バイクツーリング雑誌“OUTRIDER”がいつも
置いてあり、何となく手にとってみたら“ナチュラル ツーリング”というコーナーが
意外と面白くて、それから毎月読むようになった。そして「こりゃ、オフロードバイク
で行った方が面白そうだ」と決断し、中型二輪の免許を取りに自動車学校に通い
始めたのです。バイクにはそれまでまったく興味が無く、まさか自分がライダーに
なろうとは思ってもみませんでした。

【注: 当時は“OUTRIDER”が創刊したばかりの頃で良い雑誌でした。現在は・・・・・・】

 
 
昼間会社に勤め、夜から和食レストランでアルバイトをして資金を貯めながら、
“OUTRIDER”などで全国の林道情報を収集しました。やっとバイクの免許も取得
でき、ヤマハのオフロードバイク・セローを購入して、はじめてデコボコ道を走った
時、「こんな面白い事をなんで今まで知らなかったんだ!」と心底思いました。

 3月末日で会社を辞め、バイク屋さんの社長が「パンクの修理くらい出来ないと
旅先で困るから」と、お店でバイトをさせてくれました(旅行後、再び1年間バイトを
させていただいた)。 おかげでスパナやプライヤーなど、一般的な工具の名前も
分からないほどのメカ音痴だった僕が、かろうじてパンク修理なら出来る程度に
なりました。

 ダンロップのツーリングテント、米軍払い下げの寝袋(ドでかい!)、コールマン
のストーブ ピーク1を買いそろえた。モトパンやモトクロスブーツは色が派手でどう
も好きになれず、汚れても平気な米軍のジャングルファテーグの上下に編み上げ
安全靴という、一風変わったスタイルで連夜続いた送別会の疲れを感じる中、198
8年5月5日の子供の日に自宅を出発した。
 バイクの免許を取得して半年後のことで、今思えばチョット無茶だった(初日いき
なり林道でコケたくらいだからね)。期間は特別決めていませんでしたが、旅の間
に姉の結婚式日程が10/9に決まったため、ギリギリ2日前に帰宅しました。

 

 酔ったなぁ〜 寒かった
 知床 羅臼キャンプ場にて酒宴
 戸川隊長はその人柄からみんなから頼りにされ、僕が金市荘で
 居候していたときも 世界中の旅人からエアメールがたくさん届い
 た。この後泥酔し皆さんには大変ご迷惑をおかけしました。


 星下露営    

 それまでツーリングキャンプの経験は皆無にもかかわらず、宿泊手段はすべて
野宿と決めていました。林道脇の空き地であったり、海岸、橋の下、河原、スーパ
ーの駐車場、湖畔、軒先、はては公園のトイレ、バス停などです。

 5ヶ月の旅で野宿しなかったのは、那覇でフェリーが入港したその夜、コンビナ
ート基地の駐車場にテントも張らず寝転がっていた時、警備員に「夜はハブが体
を暖めにアスファルトに出てくるから・・・」と脅され警備員宿直室に泊めてくた時
と、羅臼キャンプ場で知り合った、帯広の戸川謙一さん(僕の師匠です)のアパー
ト「金市荘」に、1ヶ月も居候させてもらったとき(炊飯ジャーと屋根がある以外、ほ
ぼキャンプと同じ生活で非常に楽しい毎日でした)、福島県のパワフルおばさん、
K.I.さん宅に北上時1泊、南下時2泊させてもらったときだけでした。 

※ 親不知を抜くため、鳥取砂丘キャンプ場から一週間君野歯科医院に通い、
   ケガの治療のため宿毛自然公園キャンプ場から、一週間大井田病院に
   通院しました。

 

 エネルギッシュなおばさんです
福島県の田島町はR122の三叉路で、どっちに行こうか
思案していところ自動車が止まり、「今日はどこに泊まるの?」と女性
が聞いてきた。「全然決まってません」と答えると「じゃ家に泊まってき
なさい」と半ば強制的に(?)連行された。好奇心旺盛、登山にスキー
旅行と人生を目一杯楽しんで生きているバリバリおばさんです。

 無芸粗食   

 5月22日鼻水を垂らしながら、寒さを堪えてやっと納沙布岬に着いた時、あまり
の寒さにラーメン屋(鈴木食堂)で暖かいみそラーメンを食べてしまった。
 石垣島の米原キャンプ場近くの小さな食堂で、仲間達と豆腐チャンプルを食べ
た。・・・・・・・・・・・・・・・外食したのはその2回だけで、土地土地の旨い物は・・・まっ
たく食べなかったのです。
 ジャガイモ、タマネギ、にんじんの腐りづらい野菜を常にキープし夜、米を3合炊
いて夕飯1合、翌朝飯1合、昼飯に最後の1合を食べるパターンがずっと続いたけ
れど、途中から米と小麦粉(具のないお好み焼き)、安いスパゲティ、いったいどれ
が一番安いだろうかと真剣に試行錯誤を繰り返し、その結果は・・・・・・・・パンの耳
でした。
 大きな袋いっぱいに詰めてあっても、10〜20円程度と大変お得です。
 走っていてパン屋さんを見つけるとU ターンしてでも寄って、店に入っていきなり
お姉さんにこう訊きます。
   「パンの耳ありますか?」

レジを打ちながらお姉さんが、今度は僕に質問してきます。
   「なんのエサにするんですか?」

   「僕が食べます」
と答えると、視線をレジから僕(薄汚い戦闘服に背中には大きなザック)に一瞬移し
   
   「じゃぁ タダでいいです」
とどのお店でも言われました。ありがたく頂戴しお礼を述べ、他には何も買わずに
お店を出るのです。
 パンの耳はお腹がいっぱいになる前にあごが疲れて、一度にたくさん食べられな
いので長持ちし、長持ちすれば次第に堅くなり、更にあごの疲れるのが早まっていく
という、素晴らしい貧乏食です。又パンの耳は米、小麦粉、スパゲティと違い、水と火
を使わなくても食事が出来るので、支度、片づけも無く燃料の節約にもなるのです。
長いときは1週間、朝昼晩パンの耳の食事を楽しめました。



真っ黒だ!
石垣島  米原キャンプ場
石垣島の海はショッキングでした。 朝、テントで目覚めるとそのまま
目の前に広がる東シナ海へ飛び込んで潜った。毎日毎日、朝から晩ま
で潜っても飽きない美しい海だ。白い砂浜から沖合200bは珊瑚礁が
続き、サンゴが途切れる所では遙か底までサンゴの絶壁が垂直にそ
びえ立ち、澄んだ水の中でまるで空を飛んでいるようだった。



 晴走雨読                                            

 パン屋さんに寄ったのと同じように、古本屋を見つけても必ず寄っていた。
100円とか150円でボロボロの文庫本を買うのです。天気の良い昼間、走り疲れて
林道脇で本を読んでうたた寝したり、雨の日にテントの中で一日読んだりしていたの
です。そんなときはエッセイがよろしい。 ひねもすのたりのたりかな 旅の間に買っ
て読んだ本は・・・・・・

        
         
ゴキブリの歌          五木寛之

         風に吹かれて             〃

         深夜草紙@〜C          〃

         にっぽん漂流             〃

         地図のない旅            〃

         夜のドンキホーテ          〃

         青年は荒野をめざす         〃

         贋食物誌           吉行淳之介
 
         恋愛論                 〃

         不作法のすすめ            〃

         悪友のすすめ              〃

         面白半分のすすめ            〃

         ぼくふう人生ノート            〃

 
  
         

夜は子供達と釣りをした 人工衛星も見えた
西表島のすぐ隣に浮かぶ全島民75人(当時)の小さな島、鳩間島の小学校
の生徒達。気の弱い小学1年生のみやじは、いつもみんなにいじめられていた。
貨客船で島を離れる前の晩、「兄ちゃん 行くな、兄ちゃん 行くな」と泣いた。
小学校の鈴木先生は舗装道路が1本しかない(しかも200b位)この島で、
スズキ刃1100を乗っていた。子供達はみんな、本土のどこかで日本軍とアメ
リカ軍がまだ戦争をしていると信じていたのには驚かされた。

       
  南走北馬  

 オフロードバイクだからやっぱりダートが楽しい。雑誌や本で全国の林道を調べて
おいた。まぁ林道を走るために旅していたようなもんでした。残念な事に当時はダー
トだった林道も、何年か経ってツーリングで再び訪れると、全線舗装化(税金の無駄
遣い)されていて大変ガッカリすることが多くあります。ダートの林道が舗装されると、
乗用車の行楽客が多く入るようになり、今までは目にすることがなかった空き缶、食
べ物の包装紙、タバコの吸い殻などのゴミをそのまま路肩に捨てていく、ほ乳類 オ
オバカヤロウが必ず出現するのです。
 山奥の林道を数十億円もの税金で舗装しても、交通量は極僅かです。しかも降雪
地域では1年の半分は雪で通行できません。国土交通笑(旧建設笑)は日本の川、
海、山を、国民の膨大な税金で破壊しているのです。
 
 全国の林道を走っていると、針葉樹が植林(長い間政府が推奨していた)された山
をどこでも見かけますが、杉や檜は根張りが浅く落葉しないため、広葉樹林に比べ
てデメリットも多いのです。それに杉・檜は常緑樹で紅葉しないから四季をあまり感
じないしネ。

 
 落葉樹は秋が過ぎるとたくさんの葉を落とし、それが腐葉土となって養分となり、雨
水をいっぱい貯めることが出来ます。雨水は何年もかけて腐葉土で濾過され、きれ
いで養分豊富な湧水となり川となります。
 養分豊富な水の川にはイワナ・ヤマメも多く棲み、海にもいっぱいの栄養を与えま
す。また厚く積もった落ち葉は、大量の雨水を貯め込み長い時間を掛けて沢になりま
すが、落ち葉のない杉・檜林では、降った雨はそのまま山肌を流れ落ち、一気に川
に大量の水を流し込むので洪水の原因にもなっています。
 洪水対策と言ってはダムを造り(他にもいろんな理由を付けますが)造ったダムに
土砂が溜まるので、今度は砂防ダムを作り山の土砂を封じ込めようとする。挙げ句
の果てには海岸線が後退している(当然だよね)からと、消波・護岸ブロックを海岸
に敷き詰めるというふうに、長〜いサイクルで国土交通笑は我々の税金を無駄遣い
し、美しい日本の自然を破壊してくれているのです。

  
閑話休題
  
 
有料道路は走りたくなかった。景色は良いかもしれないが、お金が無いからね。
それに税金で造ったみんなの道路を、再びお金を払って走るというのも納得できな
かった。実際には秋吉台スカイラインと奥滋賀スーパー林道(有料)を走ったが、料
金所のおじさんが家に帰った後、中に入ってキャンプして、早朝おじさんが出勤する
前に出口まで走りきってしまった。

 記憶にある転倒は初日の安倍峠、青森県の赤石川林道、高知県の黒尊林道走
行直後の四万十川方面下り舗装路の3回です。
 高知県で転倒したときは右膝を路面で擦傷し、膝の白い骨がパックリ露出したの
で、水筒の水で洗浄してから自分で包帯を巻いた。そのまま放っておこうとしたけど
、暑い時期であったし小砂利がまだ洗いきれていなかったので、宿毛市内の大井田
病院へそのまま行った。消毒だけしてもらうつもりが6針縫われてしまい、抜糸まで
の一週間毎日消毒のため通院しなくてはいけなくなってしまった。看護婦さんが 「連
絡先は?」と聞いてきたが、 「連絡先は・・・・無いんですけど、病院の近くでテント張
れる場所ありませんか?」と逆に聞き返す事になった。

 その夜は病院近くの公園でテントを張ったが、街中にあるので連泊する訳にはい
かない。翌日病院へ行ってから、松田川沿いの県立宿毛自然公園キャンプ場
の東屋下にテントを張った。右足を包帯で固定されているので、エンジンを右足で
キックできない。仕方なく左足でエンジンを掛けてバイクに乗った。膝を曲げられな
いので、走り始めてもひたすらスタンディングで走り通すことになった。一週間後の
抜糸まで、この東屋を起点にして生活する事となりました。


朝飯を炊き昼飯用のおにぎりも造っておいた。しかし一瞬目を離
した隙に、カラスにやられた。俺の昼飯をぉぉぉ!奴等は遠い木
の上から虎視眈々と狙っていゐるのだ。カラス達に威嚇を与え
ながらテントを撤収したにもかかわらず、15秒程威嚇を怠った為
に味噌も持ってかれた。



  謝々  

 そのキャンプ場で迎えた2回目の朝は雨だった。8時頃そこから唯一見える農家
のおばさんが、両手に何か持って長い田圃の中の道をスタスタ歩いてくる。なんだ
ろうと思っていると「兄ちゃん足が悪いけん、雨が降っては米も炊けんじゃろ。」と、
ホカホカご飯とみそ汁、おかずをお盆にのせてのせて持ってきてくれた!
 いやぁ嬉しかった。ありがたく頂いた後、お椀とお皿を洗っておばさんの家に持っ
て歩いていくと、おばさんが家から飛び出てきて「兄ちゃん、いいけんいいけん。」
と言って取りに来てくれた。
 翌朝もその翌日も来てくれた。本当に嬉しかったけれど、河原で何とか焚き火を
起こせたし、米も炊くことが出来たから、いつまでも甘えるわけにはいかない。おば
さんにお礼と共にその旨を伝えると「よし。」と言った。
 台風が接近し雨が2日間降り続いた。するとまたおばさんが傘を差してご飯を持
ってきてくれ、雨漏りのする東屋を見て「あれ、雨漏ってんね」と言って帰ったと思っ
たら、大雨の中今度はおじさんが脚立とトタン板を持ってやって来た。屋根に上が
ってトタンを張り、「風で飛ばされんようにの」と大きな石を拾って屋根に置いていっ
てくれた。う〜ん。なんという人達だろうか。

 通院が終わり一週間張りっぱなしのテントを撤収してから掃除をして、おばさんの
家に挨拶に行った。大変お世話になったことに、感謝とお礼を述べて住所を聞くと
おばさんは・・・・・おばさんも昔、東京で親切な人に助けてもらった時、何もお礼が
出来なかった。だから兄ちゃんも私にお礼をするつもりなら、誰か困っている人が
いたら助けてやってな・・・・と言って教えてくれませんでした。

  

うわ〜!カッコつけてる〜!恥ずかし・・・
鳥海山林道にて晩飯を炊く。
毎日こうして飯を炊いた。朝出発する時には、ここに人が野宿したと
いう形跡を一切残さないようにする事が鉄則だ。

     




 悔先不立   

 今思うと残念に思うことがある。
この旅に出発した22歳当時は、“水に潜ること”と“釣り”をまだ知らなかった。
水に潜って遊んだのは沖縄だけだった。林道沿いの美しい渓流で何回キャンプした
ことか。仁淀川や川辺川沿いに走っていたにもかかわらず、川に入ろうとはしなかっ
た。う〜悔しい!
 東北や北海道の山中で、渓流を目の前にしてキャンプしていたにもかかわらず、
竿を振ろうとはしなかった。う〜悔しい!そのころは山と林道しか興味が無かったか
らなぁ・・・・・・・・。もし今のように“釣り”や“水に潜ること”の楽しさを知っていたなら
ば、あと1年はかかっただろう。

               


沖縄 米軍基地のサマーフェスティバルに迷い込んで、ひまわり
の種をつまみにしてビールとワインを飲んでいた、海兵隊の連中に
手招きされ一緒に飲んだ。そこぬけに陽気な連中だったな。
KISS、AEROSMITHなどを話のネタに何とか会話が成り立った。

                

西表島・・・・なかなか行けない所です
西表島・カンピラーの滝へトレッキング。
熱帯性の植物がドワッと迫ってくる。まさにジャングルだ。
南の島は朝から暑く、けだるい時間はゆっくりと過ぎてゆく。
しかしこの時は先生と二人で空気も時間も止まったような雰囲気の中、
走って下山した。なぜなら船の出航時間ギリギリだったから。
カンピラとは神の座の意。


懐かしの金市荘 
北海道 帯広で戸川隊長のアパート金市荘で約1ヶ月共同生活した。
仕事をしていた戸川さん以外のビビンバ、アメリカンと私はプー太郎。
キャンプ道具での夕飯の準備片付けは我々の役目。質素ながら楽し
い毎日だった。週末作ってくれる戸川さんのチャパティが旨かった。



九州 宮崎県椎葉内大臣林道 椎矢峠
後ろのDTは防衛大学を目指す地元の高校生。
椎葉村・諸塚村・五ヶ瀬町は林道の宝庫だ。村役場で白地図を買って
村内を走り回った。とにかく山深く、ここまでの道のりは果てしなく遠かった。


尾瀬にて日帰りトレッキング
福島県南会津の湯ノ花温泉にキャンプを張って、沼山峠−長蔵小屋
−見晴までを往復。平坦な湿地を想像していたので、楽勝気分でいたら
どっこい、険しい道のりにビックリした。とにかく歩いて歩いて歩きまくった。

      

鳥取砂丘キャンプ場にてチャリダーの先生と、クラブマンの兄ちゃん
親不知を抜くためにここから歯医者に通った。ここをベースキャンプに
氷ノ山、扇の山方面の林道を探検に出掛けた。夕飯はチャパティが多かった。
キムチの素スパゲティも良く作った。何を作っても旨く感じた。


  
石垣島から那覇に帰る有村産業のフェリーにて
フッチャン、西やん、小説家の先生と泡盛で酒盛り。中央にいるのは
不抜けたフランス野郎のジョン・マーフィー。 宮古島で3時間のトランジッ
ト(?)があり、みんなで上陸して居酒屋で酒盛り。そして出向間際に船
に戻って再び酒盛り。   ちなみに鹿児島−那覇間は照国郵船



鞍掛峠 雨の降る中チャリダーの大学生と
憧れの峠でご満悦の私。長い長い林道だ。
よくこの峠をチャリで登ってきたものだ。チャリダーはライダーが支払う
ガソリン代よりも多くの食費を必要とする。それが彼らの燃料だから。


TOP                  戻る